土曜日, 4月 17, 2004
4月17日
九州・宮崎から鹿児島に向かう列車に乗っています。昨日から宮崎市を皮切りに九州・講演コンサートツアーが始まりました。鹿児島本線を南に下り、都城(みやこのじょう、と読むそうです)までは深い山を抜けていくので、車窓からの眺めは新緑の山並が次々と流れこころを和ませてくれます。藤の花の島が緑の海に転々と漂って本当にいい時期に来られました。宮崎の水田はもう苗が20センチ近くにも育っていましたが、ここでは3月に田植えをするそうで、そうですね、二期作ですからね。じつは、我家の田も、一昨日なんとか種まきを済ませてきました。このところ、時期外れの晴天続きで田んぼがカラカラに乾き、代掻きもできず困っていたのです。種籾はもう1週間以上も漬けてあり、そのまま九州に行くこともできないので、急きょ田に水道水(と言っても山の水ですが)を溜め苗床を作りました。人はビニールシートを使えば庭で簡単に苗を作れるよと言いますが、自分はこと米になると、なるべく化学製品を使わない自然流にこだわりたいですね。クロ(畦)も最近では黒ビニールで水もれを防ぐために使う農家がほとんどになりましたが、私はどうもこれも気が進みません。せっかくの棚田がビニールで汚されているように感じるのです。ことしは、先月滋賀県彦根市の講演会場で知り合った100反の無農薬稲作やっているという草野さんから譲っていただいた「はえぬき」という品種を育てています。とにかくこんな旨い米はないからやってみなさい、と奨められました。そして赤米のモチもすこし蒔きました。草野さんは第三世界の人たちに自分の作ったお米を毎年送る活動を続けています。先週、隣のきこりのおじさん(といっても70を越えてます)がもう歳で苗代作りがおいねえ(つらい)から、今年からは他に頼むことにしたと言いました。これでこの仲村で苗床から手田植えをするのは我家だけになりました。さびしい限りです。隼人という駅に今着きました。ここから八代、人吉に抜ける肥薩線が出ています。たまたま何気なく手にしたJR情報誌を見ると、「肥薩線物語」とあり、この路線、八代〜隼人はいまでは山の中を走るローカル線だが、明治・大正時代はこれが九州の幹線、鹿児島本線だったと書いてあります。当時はいま私が乗っている海岸線を走る鹿児島本線はなく、門司から鹿児島に行くには八代、人吉などを経て(現在の肥薩線)辿りつくしかなかったそうです。どうして便利な海岸線を避け、わざわざ不便な山中に線路を作ったのかというと、それは、軍の意見がすべてにおいて優先される軍国主義の時代だったからなのです。海岸ルートでは敵の艦砲射撃を受けるというのがその主張でした。これが完成したのが明治40年で当時の鹿児島本線です。現在の鹿児島本線(海岸ルート)が完成するのは昭和2年、そこで山間部ルートは肥薩線と改名されました。敵の艦砲射撃を避けて山の中にあえて造られた鉄道だけに、肥薩線はトンネルの数が多く九州一だそうです。難所につぐ難所で、造る人たちは相当苦労したに違いありませんが、今ではその光景が鉄道名所になり人気があるそうです。人吉には10年以上前にそこの出身の人に連れられて訪れたことがありますが、そのときは自動車だったので肥薩線に乗る機会がありませんでしたので、いつかぜひ乗ってみようと思います。それにしても、現在の日本もどこかこの軍国主義時代の臭いがプンプンしているような気配です。ほんの数日前のこと、我家の上を通る林道を走っていたら、迷彩服を着た自衛隊員がトラックを列ねてウヨウヨしているのにビックリ。すぐ車を停めて話を聞くと、訓練演習だといいます。こんなことは始めて、それにこんな公道で許されるのでしょうか。早速、鴨川市長に電話すると、あいにく留守でしたが、代理の人が自衛隊からの報告はなかったと言います。ただ、大規模な訓練は事前に通報してくるが、小規模なものは連絡してこないことになっていると言います。そして、町で用事を済ませて帰宅すると上空に大型ヘリがどうやら地上部隊と合同訓練をしているらしく、我家の上をブンブン低空旋回飛行をくりかえしていました。もう家中が振動し子どもたちは怖がっています。これは許せん、と館山の航空自衛隊基地に抗議の電話をしましたが、やっと訓練が終わったのはそれから30分も経ってからでした。これがなにかの前兆にならないことを祈ります。
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