日曜日, 5月 14, 2006

5月14日

母の日の今朝、山々の新緑がひさしぶりに明るく輝いてきました。今日はお日様が出てくれるかな。真生といっしょに雨後に一斉に出てきた巨大な竹の子、というかもう2メートルくらいに伸びている竹を切り取る、間引き作業をしました。急な斜面でなかなか大変です。

教育基本法改正法案の審議が大詰めを迎えています。昨日にニュースでは民主党が「愛国心」についての対案を出したと報じていますが、ほとんどの主要メディアでは、あたかも教育基本法を変えることがすでに前提になっている論調です。でもちょっと待てよと言いたいです。改正を声だかに唱える政治家連中は現今の義務教育の現状をほんとうに知っているのでしょうか。小泉内閣になって以来小中学生の就学援助を受ける割合が40%も増えているそうです。愛国心どころの話しではありません。憲法で保障された、子どもたちが平等に教育を受ける基本的な権利が損なわれているのです。それこそ今問われなければいけないのは、国(政府)の責任問題ではないでしょうか。自分たちの怠慢を棚に上げて教育危機などと唱えるのはまさに噴飯ものです。こんな記事もあります。就学援助が70%という小学校で、子どもたちに「将来の夢」という作文を書かせたところ、三分の一が何も書けなかったというのです。(清水澄子/女のしんぶんより)義務教育に対する国の責任を放棄したままにしているこの政府は、どんな将来像を子どもたちに残そうとしているのでしょうか。

歴史は常に勝利者によって創られる。言い方をかえると、歴史は陰謀の歴史と言ってもいいかもしれません。時の政権・体制にとって都合悪い事実は隠蔽・歪曲されていると考えていいでしょう。

どうして日本はあのような無謀な戦争(太平洋戦争)を起こし、350万人の国民、アジアで2,000万人もの犠牲者を出して負けたのでしょうか。私たちは(少なくても私は)、戦前の国民はみんな騙されて、心にもないことを言わされていたのだと教え込まされてきました。しかし、立花隆は自著「天皇と東大」でこう語っています。「あの時代の資料を読みなれるにつれて、私にだんだんわかってきたことは、あの時代は,後世の我々が考えている以上に右翼的、国粋主義的であったということである。少数の右翼国粋主義者がそうだったというのではない。世の中一般の人びとのものの考え方、感じ方が、今の我々には想像を絶するほど、右翼的であったということだ。(中略)そういうことがわかってきたとき、私はあの戦争がなぜ起きたのかが実感的に本当にわかったと思った。」

「人びとのものの考え方、感じ方が、今の我々には想像を絶するほど、右翼的であった」とは、まさに私にも想像を絶することなのかもしれませんが、この本を読み進んで(やっとほぼ終わりに近づいています)、なんとなく当時の人たちのこころが推測できます。でも、もしかしたら、戦後もそれほど根本的には変わっていないのかもしれません。日本人の感性や考え方がそれほど変化しているとは、最近とくに思えなくなってきました。天皇崇拝や国粋主義という言葉に、私は反射的に拒否反応を示します。民主主義とは相容れないと教育されてきたからです。でも実際には天皇は国民の尊敬される象徴として、私たちの日常に毎日のように存在をアピールされているわけです。それから崇拝に至るみちは意外と近いのかもしれません。そのような危機感を抱かされるこのところの日本の状況です。

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