木曜日, 8月 06, 2009

広島デー

今日は8月6日、64回目の広島原爆記念日です。

印象に残った言葉や文章を拾い書きしてみました。

広島のJPG

「私は、女学校二年のとき広島で被爆しました。・・私のクラスは爆心から1キロ強のこの地点(雑魚場町)で、作業中に被曝して全滅したからです。クラス38人中37人が8月20日までに死に,奇跡的に助かった1人も37歳で癌のため亡くなりました。私は病気で学校を休んだために助かりました・・。傷つき母校に逃げて来た友達は,顔が洗面器のように膨れ上がって、体や腕から焼けた皮膚が垂れ下がっていました。・・原爆は、すべてを焼き尽くしてしまう凶悪な兵器ですが,広島の場合、12〜3歳の子どもが多く殺されたことを知って頂きたいと思います。「強制建物疎開」というのがあり、全市をあげての大作業がありました。この作業の主力が中学校・女学校や国民学校高等科1、2年生の子どもたちでした。早朝から鍬やスコップを担いで,家から現地まで歩いて行ったのです。・・・この作業で死んだ子はわかっているだけで6000人余、もっと多いという説もあります。この作業で死んだ子どもということに,私は大変こだわり続けております。・・・たまたま学校を休んで助かった私は、「運の良い子」と言われました。でも私は,生き残ったことを素直には喜べないのです。私は「運が良かった」として、死んだ友は「運が悪かった」のでしょうか。自分が原爆を落としたのではないのに,原爆で生き残った人は「すまない」と言います。私はほぼ健康に生きて来ましたが、この心の辛さ,心の傷は墓場に行くまで続くと思います。もし癒えることがあるとすれば、それは核兵器を廃絶できたときだと思います。」

関千枝子(作家・元毎日新聞記者)シンポジウム・絵と詩は訴えるから『核兵器は廃絶できる』月刊マスコミ市民(2009年8月号)

「私はその日、誰ともまったく喋ることができなかったことを覚えている。一人として喋る相手がいなかった。たった一人になって歩いて行った。そのとき私はサマーキャンプにいたのだ。そのことを聞いた私は森の中に歩いて行き、2時間ほどひとりだけでいた。そのことを誰とも話すことができなかったし、みんなの反応をまったく理解できなかったのだ。自分は完全にひとりぼっちだと感じた」
その孤立が、私たちの時代の最も偉大で、最も過激な社会派思想家の一人を産むことになった。アメリカ帝国に陽が傾くとき、それはそうなるだろうし、またそうなるに違いないが、ノーム・チョムスキーの業績は生き延びるだろう。

(ノーム・チョムスキー:広島に原爆が落ちた日の回想インタビュー。チョムスキー、16歳のときの思い出)アロンダテ・ロイ著「ノーム・チョムスキーの孤独(2003/9/1)」より

「私が小さい頃、この日のために・・こんなことをする私たち家族は、この国では少数のそのまた少数でした・・原爆の惨禍のドキュメンタリーフィルムを上映しました。古い16ミリ映写機にフィルムを装填し、あの破壊された町と遺体のショッキングな、揺れて、荒い白黒映像が、無感情なナレーターの淡々とした事実の語りとともに、居間の壁いっぱいに写るのを観ていたことを今日でも思い出します。・・・若い頃、記憶が”失せない”ようにと、私の家族と友人たちはこの恐ろしい記念日を遠い場所からデモとビジルをすることで思い起こすようにしてきました。その儀式の最後には死んだ人々のために水面に紙で出来た灯籠を流すこともよくやりました。これは気ままなアメリカの夏の一夜のこととは確かに言えませんが、当時小さかった私でも、まるで原爆の被曝者たちを知ってるかのように身近に感じていました。なかでも、小太りであまり動かなかった私は、貞子と千羽鶴の話には不思議と引きつけら、また混乱させられました。・・・・しかし、今現在、ほとんど知られてもいないし、論議もされていませんが、アメリカの核装備状況は危険なほど強大です。権威ある原子力科学者ブルテンによれば、アメリカは今でも5,200の核弾頭を維持し、その一方でオバマ政権は今年だけでも核兵器の研究開発に60億ドル以上も予算を組んでいるのです。・・・来年の始めには、オバマ政権が従来の核兵器がアメリカの兵力の中核パワーを占めるという核戦略の見直し報告を完了することになっています。もし、オバマがこの4月にプラハで発表した反核声明を裏付けるのであれば、そのような兵器が使用されるシナリオを制限するような文書になるでしょう。・・・64年前の今週、日本の二つの都市を破壊し余りにも多くの人命を奪った爆弾は、今日の核兵器に比較すれば取るに足らないものだったことも知るべきです。広島に落されたリトルボーイは15キロトン。アメリカの現在の核兵器は100から300キロトンです。1945年当時の都市ではなくても、今日の大都市でも破壊できるのです。・・・考えられないような,想像もできないようなことに思えます。大げさに聞こえるかもしれません。でも、それは思いたくもない、でも知らなければならない真実です。広島と長崎の人々そして私たちの未来の子どもたちがこれを理解することを要求しています・・64年は遅すぎます・・でも、少しでも早すぎることはありません」

フリーダ・ベリガン「64回目にあたって:ノーモア核戦争/広島と長崎の思い出」(トムディスパッチ/2009年8月3日)
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フリーダ・ベリガンは、アメリカの有名な反戦平和活動家で何回も反政府活動の容疑で逮捕投獄されたフィリップ・ベリガンの娘で、彼女自身も平和活動家です。彼女の家族のように今日の広島デーを毎年反核運動の記念日としてデモやビジルをするアメリカ人は意外とたくさんいるのです。4年前、私は今日のこの日オレゴン州ポートランドでの広島デーに誘われて参加し、町をデモし反戦反核ビラを配るという経験をしました。たしかに、アメリカの小都市で、参加者もたぶん50人もいなかったかもしれません。デモの後は公園に集まって、踊ったり、歌ったり、みんなで餅つきをしました。このような広島デーの催しが毎年アメリカ中の各地で行われている事実に、私は少々驚かされました。けっしてベリガン家族は少数中の少数ではないのです。アメリカの平和活動家の層は、私たち日本人には想像できないほど奥深く厚いことを知ってもらいたいと思います。果たして、この日本で広島原爆記念日を忘れないために、そして核のない世界を祈って、人々が集まってなにかするという市町村がいくつあるでしょうか?唯一の原爆被災国の日本人として、これでいいのでしょうか?



1 件のコメント:

よしお さんのコメント...

こんにちは、いつも何か大変大切なことに気が付かせて頂く更新を楽しみにしております。

世界征服のために最初にこの凶悪殺人兵器を保有し、とんでもない量の核兵器を準備するアメリカ。今の状態で100%絶対にこの核が使用されないということは無いでしょう。

我々の為にこの地球上での最も大きな問題を解決する事がオバマさんはしてくれるのでしょうか。
もし仮に運良く、世界中の核の廃棄が決定されたとしても、この殺人兵器(殺人兵器が殺人平気となりました、、、恐ろし、、、(汗))の処理も果たして何の問題も無く済むのでしょうかね。