最近刊行された『アルバート・アインシュタイン:ラジカルな市民、科学者』(ピ−ター・ドレイヤー著)の抜粋を読みました。なにかアインシュタインの生きた軌跡と彼の願いが、今の日本や世界と重なって感じられたのでここで紹介します。以下は本の抜粋です。
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1931年のカリフォルニア訪問の際、当時ヨーロッパに住んでいた物理学者アルバート・アインシュタインはチャーリー・チャップリンと国際的な著名人や政治的に過激的な人物たちと会うことを望んだ。チャップリンは彼を映画“街の灯”の公開日に招いた。二人がカメラマンたちにポーズを取っているとき、チャップリンは言った、「彼らが私を歓迎するのは、私を理解するからです。彼らがあなたを歓迎するのは、だれもあなたを理解しないからです。」
アインシュタインは世界的に有名になった最初の科学者だ。彼の科学的業績を何も知らない人たちでも(たぶん、相対性理論とかE =
mc2公式になにか関係していることぐらいは別として)、その名前とイメージから“天才”という言葉が出て来るだろう。
1921年ウィーンでの講義 |
TIMEは、宇宙と私たち自身を見る目を永遠に変えた人間として「世紀の人」に選んだ。しかしアインシュタインは科学の世界自身を変える可能性も示した・・理性的思考とテクノロジーによって私たちの暮らしを向上させることだ。
その反対に、高性能の戦争兵器のように、世界を破壊し得る科学の可能性も示した。
アインシュタインはこのモラルと現実的なジレンマを理解していた。科学的知識だけで世界が救われるとは信じていなかった。科学とテクノロジーを誰がコントロールするかで善くも悪く使われるだろう。それで彼はヨーロッパとアメリカ(1933年以降)での人生を平和と社会的公平のための活動に費やした。アインシュタインは平和主義者、人間主義者、社会主義者、シオニストであった。アインシュタインは不本意な有名人だったが、より人間性あふれる民主的な世界を創造するために自分の名声を使えることは知っていた。そして進んでそうした。常に政治的支配体制に挑戦するほかの科学者や活動家たちと連携したのだ。
彼は人生の中で、彼の政治的意見のためにドイツ政府とアメリカ政府の両方から脅かされたことがある。冷戦中、FBIのアインシュタインのファイルは1,800ページを越え、それには彼が支持した何十もの“破壊活動“組織とされる団体がリストされていた。伝記作家のジム・グリーンは、「彼の手紙はチェックされ、電話は盗聴され、自宅とオフィスは探索され、ゴミまで調べられた」と書いている。ジョセフ・マッカーシー上院議員はアインシュタインを”アメリカの敵“と呼んだ。
アインシュタインの科学と正義への情熱はドイツで子供の頃に培った。彼の両親は無宗教でミドルクラスのユダヤ人だった。5歳のとき、目に見えない力でコンパスの針が動くのを知って興味をかき立てられ、それが見えないフォース(力)への生涯の興味のきっかけになった。7年後、彼が“聖なる小さな幾何学形状の本”と呼ぶのを読み、それが別の生涯にわたる情熱をもたらした。プルシャ型教育の学校が彼の本来の心を抑えつけ、専横的な権威に対する懐疑心を形づくった。ある教師は彼はどうしようもない人間に成るだけだろうとさえ言った。アインシュタインが20代になるまでは、彼の教師が正しかったように見えた。
(訳注:アインシュタインのその後の科学者としての世界的な成功話は、大体みなさんもご承知だと思います。その頂点は1921年の“理論物理学、とくに光電効果法則の発見への貢献”に対するノーベル物理学賞授与でした。)
アインシュタインが初めて真剣に政治的活動に関わったのは第一世界大戦中で、ドイツの軍国主義と戦争に反対するいくつかの団体と関わった。彼はドイツの戦争参入に反対する声明文に署名した数名の知識人の一人だった。彼はナショナリズムを“人類の麻疹(はしか)”と呼んだ。
アインシュタインは、当時インドのガンジーが唱えていた市民不服従運動に希望を見出した。1930年9月彼は仲間の平和主義者たちに言葉ではなく行動で示せと批判した。徴兵される者たちの2%だけでもそれを拒否すれば、そんなに多くの人間を投獄できないので政府は無力化すると言った。
ユダヤ人のラジカルな有名人として、アインシュタインはナチス嫌いのあからさまな目標だった。ナチスはアインシュタインの科学を“ユダヤ人物理学”と呼び、アインシュタインと彼の理論を批判する会議と焚書を組織し、彼の講義を妨害した。当然のことだが、アインシュタインは身の危険を感じた。ヒットラーがドイツ総統に就任した後の1933年、彼と妻のエルザはアメリカを訪問中だった。ベルリンに戻る代わりに、アインシュタインはニュージャージーのプリンストンにある先端科学研究所での職を選んだ。
彼はドイツ市民権を放棄し、7年後アメリカ市民になった。1934年彼は軍需産業を“いたるところにあるナショナリズムの陰に隠れた邪悪なパワー”と呼んだ。しかしその年、ナチスの脅威を見て、彼はアメリカとヨーロッパ諸国にドイツとの戦争に備えるよう勧告し、軍役を拒否すべきというそれまでの主張を翻した。彼はスペイン内乱戦争で中立な立場のアメリカを批難した。ほかの多くの人々のように彼はそれをファシストと反ファシストとの闘いと見ていた。
アメリカが第二次世界大戦に参入する2年以上前、アインシュタインはフランクリン・ルーズベルト大統領に手紙を書き、ドイツが原子爆弾を開発できるかもしれないと警告した。彼は、アメリカの科学界を総動員して原子爆弾開発に必要な研究を始めるべきだと大統領に進言した。ルーズベルト大統領はすぐに返事をして、すでにこの問題を検討する委員会をつくったことをアインシュタインに伝えた。皮肉なことに、1941年にアメリカのトップの科学者たちが、原子爆弾開発のマンハッタン計画のためにニューメキシコ州ロスアラモスに集結したとき、そのプロジェクトのレールを敷いた理論の発見者であるアインシュタインは招かれなかった。何年か後に、公開されたFBIのファイルから、アインシュタインは長い間平和団体と社会主義団体と関わってきたためブラックリストに載り、このプロジェクトから外されていたことが明らかになった。
1953年彼は、冷戦時の魔女狩りの中心組織、下院非米活動委員会での証言を拒否するようアメリカ国民に呼びかけた。
アインシュタインはその後ルーズベルト大統領に手紙を書いたことを後悔するようになった。1945年のアメリカの日本への原爆投下による大量殺戮に彼は震え上がった。彼は冷戦時の軍拡競争と核兵器の拡大を恐れた。1954年彼は友人のライナス・ポーリングに、「私の人生で最大の過ちは、原子爆弾をつくるべきというルーズベルト大統領宛の手紙に署名したときだ。しかし、正当化できる理由がないわけではない・・ドイツ人たちがそれをつくる危険があったからだ」と語った。
1945年アインシュタインは先端科学研究所から引退したが、その後も一生の間社会的問題について発言をつづけた。1946年彼は水爆を含む核兵器拡散を止めるための新しい原子力科学者たちの緊急委員会の議長になった。
エリノア・ルーズベルトのテレビ番組でのインタビューで、アインシュタインは「国家の軍備で安全保障を達成しようというのは、現在の軍事技術からすれば、破滅的な幻想です」と語った。1955年死ぬ直前、アインシュタインと哲学者のバートランド・ラッセルは9人の著名な科学者たちを促して、核兵器と戦争そのものの廃絶を求めるラッセル・アインシュタイン宣言に署名した。
アインシュタインはしばしばアフリカ系アメリカ人の公民権問題についても公に発言した。1946年、モントゴメリーのバスボイコットが近代公民権運動のきっかけをつくる10年ほど前に、アインシュタインはエッセイ“黒人問題”の中で、アメリカの人種問題は国家の“最悪の病”と呼んだ。
アインシュタインはアメリカの民主主義と平等主義を手放しで称賛はしていたが、アメリカ人の“平等と人間的尊厳という意味は主に白い肌の男性たちだけのことだ”と指摘した。10年ほどアメリカで暮らして、アインシュタインは“自分をアメリカ人と感じれば感じるほど、この状況がさらに辛くなる」と書いている。
アインシュタインの政治と人種問題への急進的態度は、経済問題の分析批判にも及んだ。1949年に出版されたマンスリーリビュー創刊号の有名なエッセー“なぜ社会主義か?”の中で、彼は“市民を破壊する”のは“資本主義の最悪な罪”だと指摘した。彼は資本主義の“経済的無政府主義”、“私有資産による独占、民主的に構成された政治社会によっても実際にはチェックされない巨大なパワー”を批判した。
彼は、社会主義的経済と政治的民主主義が連携しなければならない、そうでなければ、個人の人権は強大で傲慢な官僚主義によって脅かされるだろう、と信じていた。彼をソ連共産主義に反対するように導いたのはこの急進的人間主義だ。
ドイツの若い科学者として反ユダヤ主義の犠牲者だったアインシュタインは、ユダヤ人の国家成立を熱心に唱えた。ユダヤ人を迫害から解放しユダヤ人文化が栄えることを彼は期待したからだ。彼はまたユダヤ人とアラブ人が権力を共有し、ひとつの国家で共存できるようになることを期待したが、それが実現しなかったことに失望した。
青年時代から死ぬまで、この合理主義科学者は熱心な世界市民だった。死ぬ1年前、アインシュタインはこう説明した。“社会的な問題で私が書いたり話したりするのは、状況があまりにも酷く不幸に見えるときはいつでも、黙っていることは共犯者だという罪の意識にかられるからです。” (引用抜粋はここまで)
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これを”紫陽花革命”と呼ぶそうです。いまこの国会中継ビデオで知りました。
http://www.youtube.com/watch?v=lT4fFf37z0w&feature=youtube_gdata_player
それにしても、首相や閣僚たちに国家の未曾有の危機だという気配がまったく感じられないのは私だけでしょうか。子どもたちのいのちが危機に晒されているというのに・・・
今週末に東京で行なわれるふたつの脱原発のイベントも、そのうねりを増大させることがその目的のひとつです。いまあらゆるレベルでの変化が起きつつあります。その変化のうねりに加わるのか、端でただ見ているだけなのか、すべての人々の意識が問われる時代なのでしょう。ぜひ参加してください。
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東京脱原発音楽祭
大切なものは何ですか
http://tokyonukefreemusicfes.org/
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■日時:2012年6月30日(土)14:00~19:00
■会場:国立オリンピック記念青少年総合センター
出演者(出演順):
橋本美香&制服向上委員会、Kダブシャイン(14:10~)
尾米タケル之一座(スイシンジャー)(15:00~)
藤波心 (15:15~)
上杉隆 (16:25~)
南ぬ風人まーちゃんバンド (17:55~)
進行役:藤波心&きくちゆみ
■参加方法:会場の規定で、以下の予約ページより事前申込み、振込みが必要です(当日も受付で登録をすれば入場できます)。
http://tokyonukefreemusicfes.org/ticket.html
■参加費:「スライディングスケール」から選んで下さい。 (経済状況と貢献したい気持ちに合わせて参加者が選ぶ方法)
一般席(自由席):1~5千円
サポーター席(指定席):1~5万円
問合せ先:info@tokyonukefreemusicfes.org
翌7月1日も同じ会場で、素晴らしい映画&映像をトークと共に丸一日楽しめます。
多くの方のサポートのおかげで今年で9回目の開催。 この日、大飯原発3号機が動くことになっていますが・・。地震国で原発はダメ〜
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第9回東京平和映画祭
今こそいのちつながる選択を
原発のない世界へ!
http://www.peacefilm.net/
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昨年に引き続き、今年も「原発のない世界を目指して、 第9回東京平和映画祭を開催します。良質のドキュメン タリー映画、多彩なトークゲストを揃えてのイベント。
どうぞお誘い合わせてご参加ください。
■日時:2012年7月1日(日)10:00~20:10
■会場:国立オリンピック記念青少年総合センター
●上映作品(予定)
◎『The Story of Stuff』 http://www.storyofstuff.org/
◎『放射性廃棄物~終わらない悪夢~』 http://www.takeshobo.co.jp/sp/waste/ ◎『friends after 3.11』 http://www.iwaiff.com/fa311/
◎『フクシマの嘘』(ドイツZDF制作)日本語字幕つき完全版、国内初上映!
◆ トークゲスト
◇佐藤潤一氏(グリーンピース・ジャパン事務局長)
◇松井英介氏(医師)
◇藤波 心氏(タレント)
◇上杉 隆氏(自由報道協会代表)
◇A・ガンダーセン氏(Fair Winds)ビデオメッセージ
■詳細:http://www.peacefilm.net/
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