土曜日, 8月 27, 2005

8月27日

一昨日の台風11号は房総半島を直撃、そして我家は過去最大の被害を被りました。自然を甘く見てはいけませんね。前回の台風も鴨川を直撃したのですが、あまりにも風雨が微小だったため今回はまったく油断しておりました。いちおうの対策はして寝たのですが、夜半すぎ3時頃、すごい風と雨脚に目が覚めた途端、バタンという音が外でしました。すぐ起きてサンルームに行くともうすでに床はびしょびしょで、ぽっかりと大きな暗闇が空いています。外を見るとガラス戸が庭に吹き飛んでいました。さあ大変、はやくなんとかしないと風と雨がどんどん部屋に入ってきます。外はすごい暴風雨。家全体がうなりを上げているような感じです。家族も全員起きてきました。寝てなんかいられません。雨合羽を着て、とりあえずガラスが半分割れてなくなった戸を戻し、どうにか外から板を打ち付けました。この作業を強風と土砂降りの中でやったのですが、もう合羽など役にたたず、あたまからずぶぬれです。足元の庭を見るとまるで川のよう。それにしても今から思うと、あの風雨でよくあれだけの被害で済んだものだと思います。しかし、田んぼは今日見たら唖然とさせられました。棚田の畦が3段も大きく地崩れを起して、稲が土に埋まっていたからです。苦労して育て、やっと今年は水が入って豊作だと喜んでいたのに。ざっと見たところ20〜30%の稲がだめになったようです。不幸中の幸いと言えば、もう穂が出そろっているのでもう水がいらないことです。でも、来年からどうするか?とても人力で修復できる規模ではないのでユンボで大掛かりな土木工事になるでしょう。台風の傷跡はそのほか多々に及んでいます。水も出なくなってしまいました。これはなんとか午前中に解決。大木が畑に倒れていたので、チェーンソーで処理しました。野菜類はこれはなんとか事前にある程度の支えなどの処理をしてあったので被害は軽微でした。山に住むということは、こういう時に、自然の力を肌に受け止めるということです。

金曜日, 8月 19, 2005

8月19日

昨夜、我家の露天風呂から柿の木の枝を通して見えた月があまりにも素晴らしかったので、明日が満月だけれど、海からの月の出をどうしても見たくなり一家で出かけました。月の出の時間を調べると(インターネットは本当にこういうとき便利です)6時28分となっています。鴨川と太海の海が一望できる青年の家に着いたのが6時33分、すでに月は海からすっかり昇っていました。その神々しいほどの輝きが波面に反射し、ちょうど小さな岩島の上に、まるで絵画のように月がまんまると浮いています。みんな「すごーい」と息をのみました。

木曜日, 8月 18, 2005

8月18日

このところ我が家は千客万来で、最大は15人もの滞在客がありました。もっとも3家族で大半はこどもたちでしたが、それでも食事の用意だけでも大仕事です。また海外からのゲストも多数ありました。ほとんどが広島・長崎原爆60周年記念式典に参加するために来日した人たちです。「Hibakusha」というドキュメンタリーフィルムのクルーもボストンから来て、ゆみをインタビューしていきました。

Hibakushaという言葉はだいぶ国際的に認知されてきたと思っていましたが、彼らに聞くとアメリカではほとんど誰も知らないということです。カリフォルニアからはウィリアム・カリーという「平和のための退役軍人会」のメンバーがやってきました。彼は70年代後半原子力潜水艦に2年間乗ってソナー探知機を操縦する役目だったそうです。主にソ連の原子力潜水艦の行動を探知するのが目的で、北海道沖にも来たことがあると言っていました。もちろん核ミサイルを搭乗させていて、わずか数十センチのところで寝たこともあるそうです。原子炉からの高濃度放射能排水は陸地からわずか10マイル(16キロ)で、こっそり海面に捨てているそうです。廃油と違い目に見えないからと理由です。ウィリアムは何かの問題で兵役を止めたいアメリカ兵を外から援助する仕事をやっています。やはり軍隊ではいじめが相当あるらしい。若干20歳前後の若者にどんな権利があるか分かるはずがありません。ほとんど脅かされて泣き寝入りです。ウィリアムは日本のアメリカ軍基地内部にもなんとか援助の手を広げたいと考えています。たくさんの資料を置いていったので私たちも基地問題に関わっている人たちに手渡したいと思います。オーストラリアからは「世界女性平和自由連合」のクリスがやってきました。今年の冬にブリスベーンで会っているので話が弾みました。

今年は、適当に雨があり、しかも低温にならずお天気がつづいているので夏野菜が豊作です。とくにトマトは連日りっぱなのが籠に入りきれないほど穫れています。毎日食べていますが、その美味しいこと。まるで甘いシャーベットと言った感じ。トマトソースも最高なのが出来ました。失敗したのはトウモロコシ。と言ってもこれもりっぱなのがたくさん出来たのですが、もったいないという変なケチ根性が出てすぐ食べなかったために身が固くなってしまいました。やはり旬のときにタイミングを逃すといけませんね。そのほかキュウリ、なすなども豊かに実っています

水曜日, 8月 10, 2005

8月10日

悲しいお知らせです。我が家の飼い猫であり、リモ農園の主人のリモが、本日午後6時永眠しました。思えば、私が鴨川に住み始めてすぐ、竹林の中に捨てられていた子猫がリモでした。最初は目も見えず、なんて醜い猫だろうなどと言われていましたが、だんだん可愛くなり、なによりも誰にも懐くのでみんなから可愛がられました。リモの一生は、私の鴨川の暮らしの歴史そのものでした。それだけに、いろいろな思い出があります。それをちょっと振り返っただけで胸がいっぱいになります。リモ、長い間どうもありがとう。こころから感謝します。安らかに眠ってください。素晴らしい猫でした。

日曜日, 8月 07, 2005

8月7日

昨日は広島原爆60周年記念日でした。日本の無条件降伏は原爆がなかったらなかったというのが、戦後から一貫してアメリカで一般に信じられていることです。そして100万人のアメリカ兵の命が救われたと。でも真実はそうなのでしょうか。はたして原爆が終戦に必要だったか、これもやはり「プロパガンダ」の臭いがします。日本側からすれば、実際には、多数の市民が犠牲になった原爆よりもその3日後のソ連の参戦の方がはるかにショックだったのです。北方のソ連が中立でいてくれればなんとか本土で持ちこたえられるというのが、戦争継続派の主張だったわけですが、その根拠が崩れてしまったのです。100万人のアメリカ兵が原爆で助かったという話も、事実は、この数字を最初に発表したマックジョージ・バンディが1947年にハーパー誌に「戦争長官のヘンリー・スティムソンに頼まれて架空の数字をあげた」と告白しています。また、原爆製造計画「マンハッタンプロジェクト」の科学主任のロバート・オッペンハイマーは「もう負けている敵に落とされた」と1945年11月に述べました。トルーマン大統領がソ連による日本占領を防ぐために原爆を使ったことは明らかです。8月3日のポツダム会議で日本が和平を求めていることは各国が承知していたのですから。でも、こういう歴史的事実はすべてマスコミから消され、原爆投下を正当化することのみが残りました。そして、核開発が疑問視されることなく今日まで続いているのです。

木曜日, 8月 04, 2005

8月4日

とても残念なお知らせ。せっかく高い樹上で命がけで捕らえたミツバチくんたちが昨日巣箱をのぞいたら1匹残らず逃亡しておりました。ガックリ。これはよくあることらしく。本を読むと逃亡に注意と書いてありました。何か気に入らないとすぐどこかに行ってしまうらしい。なにか恋人に逃げられた風で、それはそれでなつかしい感慨にも似たものでした。まあ、また来てくれるでしょう。さて、1ヶ月まえからゆみと太極拳のクラスに通っています。毎週木曜がその日で今朝も汗を流してきました。一昨年になりますが、ピースボートに乗った際なにげなく参加した太極拳の不思議な世界に魅せられ毎朝船酔いも忘れるほど船上クラスに通いました。その経験があったので鴨川の友人から太極拳の会があるからどうですかと聞かされたときすぐに行きますと返事したのでした。じつは正直言うと、どうせ地元の会だから年寄り連中の慰み程度のものだろうとタカを喰っていたのです。ところがたまたま最初に参加した日は鎌倉から会の代表の山口先生が直接教えてくれる日だったのです。私たちは初めてその先生の華麗とも表現できる流れるような動きに魅せられ、その場で入会を決めました。参加している地元の方々も素人目にみて素晴らしい動きをしているので、会のグレードの高さが分かります。今年の春からちょっと仙腸関節(腰)を痛めていたのですが、太極拳を初めて1ヶ月で痛みも和らいできたようです。あのように流れるような動きができるのにはどのくらいかかるでしょう?

火曜日, 8月 02, 2005

8月2日

今朝、エイミー・グッドマンの「デモクラシーナウ」を数日前聞こえるようになったPodcast Radioで聞いていたら、アフリカのナイジェリアが干ばつとイナゴ大発生で大飢饉に見舞われているというニュースを報じていました。多分これは日本のメディアでは報道されていないんではないかなあ。300万人が飢餓で死に直面していて、そのうち100万人は子どもらしい。イラクのバグダッドも水がなくて大変そうだし、いったいこんなときに戦争やっている輩の神経はどうなっているんだろう。ところで、ラジオのことを言いましたが、私たちもインターネットラジオを始めました。でもこれはPodcastというマックだけのものなのでウィンドウズの人にはすすめられませんが。YumiのBlogに行けば方法が書いてあります。今日はアメリカのガン(銃)規制問題について話しました。興味あるひとはぜひ聞いてみてください。

さて、そうそうミツバチの話。昨年の秋だったかな。台所の外壁の隙間にミツバチが巣を作っていることを発見しました。最初は恐る恐る覗いていたのですが、それがめったに刺さないおとなしい性格の日本ミツバチだとわかると、飼ってみようという気になったのです。それから岩手県盛岡に「日本在来種ミツバチの会」というのがあることを知り、さっそく会員になりました。送ってもらった資料を斜め読みして、なんとか養蜂家になる準備をしていたところ、この5月末、運良く最初の分封を取り込むことに成功したのです。(分封とは巣分かれすること)そして一昨日の朝、真生がハチがいっぱいいるよとまた分封が始まったことを教えてくれました。ところが見上げるとはるか梢の上で乱舞していて竿を延ばしてもとても届くような高さではありません。これは無理だと諦めてゆみを君津のバスターミナルまで送っていき、帰ってハチが乱舞していたあたりを山の上からみると、いましたいました高い樹上の枝に直径30センチくらいの固まりになってぶら下がっています。そこで梯子で樹の途中まで登り、必死の思いでその固まりをうまくビニールのトラップに取り込みました。いやはやちょっと足をすべらしたら真っ逆さまに落ちてしまうところだったので全身汗でびっしょり。でも、ハチたちは今、巣箱で落ち着いて巣作りに励んでいます。今度はいよいよ蜜の採取です。楽しみですね。

月曜日, 8月 01, 2005

8月1日

さて、なんと7ヶ月ぶりのダイアリーです。こんなに時間が経ってしまったのにはいろいろ理由があるのですが、単に忙しかったこと以外に、このホームページを新しく作り直す作業が意外と時間が掛かってしまったということがあります。やっと今日再スタートできました。と言ったところで、たぶんもうこのダイアリーを読むひとはいないかな?

まず、リモ農園の近況:6月16日に田植えを終え、今年は久しぶりの本格的な梅雨に恵まれて田んぼには今もたっぷりと水が入っています。去年の今頃はひどい日照りの真っ最中で田んぼは地割れしていました。どうやら今年は豊作が見込まれます。稲の品種は、滋賀県彦根で広大な無農薬農業を営んでいる草野武さんから「はえぬき」籾を今年も送ってもらいました。いま、食べているのは昨年穫れたものですが、たしかに美味しいです。田んぼの作業は草取りがいちおう秋の収穫までありません。畑はトマト、キュウリ、茄子が毎日たくさんとれています。ほかに、春から続いているソバ菜、ねぎ、ごぼう、そしてそろそろトウモロコシも食べ頃ですね。小麦は6月に収穫(まあまあの収量でした)し、その後にいま青大豆を移植中。小豆は昨日蒔きました。フルーツは、ことしも桃がたわわに実り、まいにちぽとぽとと落ちるので、食べるのが追いつかず、最初は興奮して食べていた子どもたちもついに顔を背ける状況になってしまいました。それにしても、桃には虫(なんか蛾の幼虫でしょうね)がほとんど必ずついてしまうので、完全に虫にやられていないものはほんの僅かです。ですから、商品として無農薬の桃などまず不可能かもしれません。もっとも袋をかぶせればいいのかもしれませんが。今年のヒットはいちじく。巨大なのがたくさんとれました。自家製カスピ海ヨーグルトといっしょに食べると誠にオツな味です。そうそう、はじめて梨ができました。まだ直径5センチくらいですが、秋が楽しみです。明日は、今年から始めた日本ミツバチ養蜂のことを書きましょう。じつは昨日、また1群のミツバチの捕獲に成功したのです。

11月1日

友人のダミアンは一見どこの国の人かわからない容貌です。国籍はオーストラリアですが、お母さんはスリランカ人、お父さんはイギリス人というミックスだからです。ダミアンは、根っからの平和主義者。まず食べ物からして完全ベジタリアン。そしてマック・コンピュータの天才。彼がいなかったら私たちは何も出来ません。このブログもかれのお陰です。私たちが去年制作した「911ボーイングを捜せ」の重要性をいち早く察して、以来ボランティアサポートを惜しげも無く与えてくれています。英語のホームページやブログも彼なしでは不可能です。ダミアン、ありがとう。

11月1日

友人のダミアンは一見どこの国の人かわからない容貌です。国籍はオーストラリアですが、お母さんはスリランカ人、お父さんはイギリス人というミックスだからです。ダミアンは、根っからの平和主義者。まず食べ物からして完全ベジタリアン。そしてマック・コンピュータの天才。彼がいなかったら私たちは何も出来ません。このブログもかれのお陰です。私たちが去年制作した「911ボーイングを捜せ」の重要性をいち早く察して、以来ボランティアサポートを惜しげも無く与えてくれています。英語のホームページやブログも彼なしでは不可能です。ダミアン、ありがとう。