木曜日, 12月 30, 2004

12月30日

ひさしぶりのダイアリーです。ついに今年も終わりに近づきました。来年のことを言うと鬼が笑いますが、1月からはこのダイアリーをしっかり書いていこうと思います。お楽しみに。

金曜日, 8月 13, 2004

8月13日

1週間の慌ただしい旅行でしたが、3日からロスアンゼルス・ポートランド・シアトルに行ってきました。ロスでは、『戦争中毒』出版人のフランク・ドレルのところにやっかいになり、到着したその日に、さっそくマイケル・ムーアの『華氏911』を観にいきました。日中だったので館内はまばらの観客でした。7月4日にロードショーですから、もうそれほど混んではいないと思ってましたが、ちょっと意外でした。時差で眠たい目をこすりながらでしたが、さすがに空前のヒット作品です、ブッシュがいかに大統領として落第か、ブッシュ家が中東アラブ国とどんなつながりがあるか、などショッキングな映像が続きます。イラクで被災した子どもたちの惨い映像がアメリカ国民の前にこれだけ見せられたのはたぶん初めてでしょう。それだけでもこの映画はすごい影響力です。この旅の最大の目的はこの映画を観ることだったので、ひとまず満足。5日はオクシデンタルカレッジでキャシー・ケリーの講演を聞きました。キャシーは去年11月、フォートベニングのデモで陸軍基地に侵入した罪で4ヶ月も刑務所に入れられた、筋金入りの平和活動家です。今までも何回も投獄された経験があります。そんなことできっとすごそうなおばさんだとイメージしていましたが、会ってびっくり、なんと可愛らしい、と言っては失礼か、こがらな愛嬌のある女性でした。彼女の今回の投獄劇の話題が中心で、刑務所で最初の日に大男に羽交い締めにされ、あげくに上に乗っかかられ息もできなかったなど、ひどい扱いだったと語りました。以前、投獄された時、15年20年の刑期の女性は刑務所ではほとんど稀だったが、今回まわりの人はみんなそのくらい長い刑期のひとばかりで驚いたそうです。たしかクリントンの時だったと記憶していますが、犯罪に対する刑罰を重くしたため、アメリカ中の刑務所に犯罪人が溢れるということになってしまいました。ほとんどが麻薬関係の軽い罪ですが、3回捕まると問答無用で20年くらいの長期刑になってしまうのです。なにしろ刑務所作りがビジネスになっているくらいで、現在200万もの人が刑務所に入っているのです。キャシーは、これからイラクとパレスチナに向かうと言っていました。アメリカのすごさはこのようなスケールの大きいひとがウジャウジャいることですね。そしてそのような人たちと知り合えることはいつでも私たちの大きな喜びです。6日はフランクと一緒にオレゴン州ポートランドに行きました。広島原爆メモリアルデーにいろいろとイベントがあり、そのうちの一つとして『テロリストは誰?』に出てくるベトナム退役軍人で活動家のブライアン・ウィルソンの講演会がその夜予定されていたのです。今回の旅はブライアンと会うのが最大の目的でした。大きな教会が会場で、フランクと私は入り口で『戦争中毒』とビデオの販売しました。なんと2ケースもってきた分が30分ほどで完売。多くのひとが数冊あるいは10册も買っていくのです。ここの人びとの関心の高さに感心しました。ブライアンの話は、ベトナム従軍で彼の世界観がひっくり返ったこと、このまま過大な消費文化を続けていけば近い将来大きな破局がやってくるだろう、では何をすべきか、など実にこころにせまってくる話でした。フランクはブライアンが彼の先生だよといつも言っていますが、なるほどと思わせるスピーチでした。翌日、あるアーティスト夫婦の家で平和のための退役軍人会のパーティにブライアンたちと参加しました。そこでブライアンといろいろ話したのですが、もっとも驚いたことは、最後にこう言ったことです。アメリカ人がこれほど怒っていることはかつてなかった。ベトナム戦争のときでもこれほどではなかった。ひとびとはもう今の選挙というシステム自体に何も期待していない。問題はブッシュかケリーかということではない。どちらになろうとこの金と権力のシステムは変わらないからだ。きっと近い将来、なにかが起こるだろう。それがどんなものかはまだわからないが、きっと驚くようなことであることには間違いない。というような話でした。いったい何が起こるのでしょう。ところでロスでミズーリからちょうど来たデービッド・ボンクライストという元ロックシンガーで今はラジオプロデューサーに会い、彼の製作した驚くべきビデオをもらいました。『911 In Plane Site』というビデオで9・11のニューヨーク世界貿易センタービルにつっこんだ飛行機の胴体になにかあり、それが衝突直前に発火している証拠ビデオなのです。つまり、ビルに激突したのは言われているアメリカン航空の旅客機ではなく、軍用機だったという証拠ビデオなのです。しかもこのもとの映像はCNNのニュースで、彼はひょんなことからふとコマ落としにしてみたらそのような画面があらわれたそうです。CNNはこのビデオ配給に許可を出さないので、彼は訴えられるかもしれないけれど、その覚悟はできている、それより世界の人たちがこの事実を知ることのほうが重要だと言いました。このビデオを今回私は持って帰ってきたので、さっそくテレビ局に持っていくつもりです。デービッドに日本に来ないかと言ったら、行きたいけれどまず帰って来られなくなるだろう、と言いました。

鴨川の田畑は相変わらず日照りつづきで土がコンクリートになっています。大家さんはこんなひどいのは昭和59年ぶりだ、あのときは竹も枯れたと昨日言っていました。でも、稲はなんとか健気に穂を出し始めました。こんなひどい条件でも死なない稲の生命力には改めて驚かされると同時に、感謝です

月曜日, 7月 26, 2004

7月26日

なんとまあ、6月中旬に田植えをして以来ほとんど一滴も雨がありません。完全な空梅雨。天水頼りの我家の田んぼは悲惨な状態で、土がコンクリートになっています。田植えからの1ヶ月は稲の成長にとってもっとも大事な時期。この日照りは大打撃です。ところが、日本海側では大雨で被災者が出ているのです。そしてインドやバグラディシュでは大洪水で2000万人が被害を受けていると報道されてます。この世界的な極端な異常気候現象をどう考えればいいのでしょう。市の上水道がない我家は、この山奥からちょろちょろ流れ出ているわき水を引いて生活用水にしているのですが、幸いにも、いまのところそこはまだ涸れていません。しかし、それは貴重な飲み水ですから、むやみに畑や田んぼに撒くわけにはいきません。刈るにも刈れずに畑に生い茂った雑草が唯一、夜露を集めてくれるだけです。この週末は家族で、千葉県北部にある栗本・地球村での「平和への結集」合宿をしました。そこのオーナーの佐藤文彦さんもこんな日照りははじめてと言っていました。そこは井戸で地下水を汲み上げているので、我家のように苦労はないのですが、それでも見ると畑の土はカラカラで作物の生育もあまりよくないようです。たまたま泥ネギを収穫していたので、もう残り少なくなった我家のネギの補充に5キロほど買ってきました。栗本・地球村は畑が6ヘクタールもあります。佐藤さんは以前九州の赤嶺さんのところで研修していたそうで、ゆみとはその当時からの知り合いです。そういえば、彼の風貌はなんとなく赤嶺さんに似てましたね。「平和への結集」合宿は参加者16人、これは理想的な人数ですね。ファシリテーターの上村雄彦さんの手慣れた進行で、ディープエコロジー・ワークショップなどを含めて、内容の濃い二日間でした。小林正弥先生ほかみなさん御苦労さまでした。7月はなんといっても17日の第一回東京平和映画祭があったので、その前後は超がつく忙しい毎日でした。おかげさまで映画祭は大成功といってよい盛況に終わりましたが、50も参加してくれたボランティアスタッフが盛り上げてくれたことが最大の要因です。若い人たちのエネルギーはすごい。もう秋に第二回をやろうという声が上がっているようですが、私たちはとても同じようにはコミットできません。3歳になった真生が最近やっと紙おむつを卒業してくれました。毎日おしっこ、うんち、と言ってくれるようになりました。これで、我家の下肥がやっと家族全員のものになったわけで、完全リサイクルになりました。するとにわかに我家のゴミの量が半減したのです。全国で出る赤ちゃんのおむつのゴミの総量たるや、きっと天文学的な数字でしょう。もし土に戻せる紙おむつを開発したら、それこそ、そのまま生ゴミなどと混ぜて理想的な堆肥ができるでしょう。誰かやらないかしら

木曜日, 7月 01, 2004

7月1日

お茶の水の明治大学で作家の井上ひさしさんの講演があると聞いて、久しぶりに夫婦で出かけてきました。冬の間留守番をしてくれ、しかもその間すっかりここで人気者になった彦根の「アコ」くんがベイビーシッターを快く引き受けてくれたのに甘えたのです。アコくんは岡山から自転車で旅をつづけ、富士山麓でのWPPDに参加してから甲府を通って、1週間まえに鴨川についていました。明治大学では、ゆみの夜間部クラスでの講演がその後に予定されていました。明治大学の昔のキャンパスを知っているので、リバティホールというモダンな会場にはびっくりしましたが、そこで井上ひさしさんのイタリア・ボローニャにまつわる話が始まりました。ヨーロッパの地域社会の政治文化についてはまったく無知に近い私に、氏の話はとても新鮮に興味深く響きました。ボローニャにはフェラーリ工場があるのですが、元々自転車を作る会社だったそうです。井上さんがいかにこのボローニャという小さな都市(人口38万)に魅入られたのか、訥々とした口調で語ってくれるのですが、さすが一流作家、話上手でどうしてもこのボローニャに一度は行ってみたい気になります。この町をここまで魅力ある都市に育てたのは、やはり住人たちの人間としての意識の高さ、ひとはどう生きるべきかという民主主義の根本精神の高さではないでしょうか。たまたま今読んでいる本で、アメリカの哲学者デューイの言葉につきあたりました。「民主主義はそれ自体が目的ではない。それは、人びとが人間の根本的なあり方と人権とを見い出し、広め、証明していくための道具である」。まさにボローニャの人たちは真の民主主義を実践しているのです。だれもがそこに住みたいと希望が殺到しているそうですが、当然ですね。

火曜日, 6月 29, 2004

6月29日

14、15日と去年ピースボートで一緒になった人たち5人が来てくれて苗取りと田植えを一緒にやりました。いつものことですが、大勢でやる田植えは楽しい行事です。16日は幼友だちの一家が東京からやってきて、それに地球村の佐々木さんも加わり、あっと言う間に田植えが終了。みなさま御苦労さまでした。今年は恵みの雨を祈りましょう。いろいろと忙しい6月でしたが、祈りと言えば、21日の夏至の日は、富士山麓の朝霧高原で行われた世界平和と祈りデー(WPPD)に参加しました。折しも台風が朝から大雨と強風を会場の高原を襲い、傘をさしていても全身ビッショリという悪条件の中、参加した数千人の人たちは文句もいわずひたすら数時間立ちつづけていました。なにか修行行事といった感じで、それはそれで実にスピリチュアルで感動的な数時間でした。こどもたちがびしょ濡れで、とくに案菜は数日来具合が悪く、やっと熱が下がったばかりのところだったので、私たちはゲスト用のテントの中で震えていました。そこで思い掛けない出会いがありました。映画「ホピの予言」制作者の宮田雪さんに9年ぶりに会ったのです。と言っても、宮田さん自身は私のことは覚えていないのです。当時、快医学をアメリカで広めるボランティア仕事を代表の瓜生先生とふたりでやっていましたが、たまたまサンフランシスコにいた時、宮田さんが突然倒れ意識不明状態で病院にかつぎこまれたのです。私たちはすぐ病院を訪れたのですが、みたところ植物人間状態で、医師の話では脳の機能が破壊されていてもう治療のすべはなく、回復する可能性はまずないだろう、ということでした。ふたりでその場でできる手当てを2日間行い、その後、何ヶ月して私ひとりでサンフランシスコを訪れた時、再び手当てをしました。以後、風のたよりに宮田さんがなんとか意識を取り戻したと聞いて、当初はいのちだけでも助かればという程度だったので、そうか奥さんの介護のたまものだと思っていました。そういうわけで、私が今回挨拶しても本人はきょとんとしていたのです。最近「ホピの予言」が様々なところで上映されているそうで、こういう時勢、人々が求めているものがあの映画にきっとあるのでしょう。

日曜日, 6月 06, 2004

6月6日

「魂の願いは、愛することであった。ただ、それだけである。そして、これほど難しいチャレンジがあるだろうか。愛し難きを愛する。赦し難きを赦す。理解し難きを受容する。これは、既成概念を固持する社会に反抗するよりも難題なチャレンジであった。なぜなら、相手は、他ならぬ己であったからだ。」             堀川祥子・モイネヘン著『ウンデッド ヒーラーズ』(文芸社)より

あれっと思う間に、昨夜から雨が降り出してしまいました。今朝、ふとんの中で、ああ小麦を刈っておけばよかったのに、と後悔しています。もう梅雨のような前線が関東に停滞しているらしいです。そういえば、去年もそれで小麦収穫時期を逸してしまいました。そろそろ黄金色になりかけているのを気にはしていたのですが。それでも素晴らしい快晴の昨日は、山積みにしてあった干し草と半年肥溜に溜まって十分熟成した下肥を混ぜて堆肥作りをしました。自分たちの排泄物がこうして再利用できるというのは、なにか嬉しいもんです。

『テロリストは誰?』のチラシが刷り上がってきました。裏は『東京平和映画祭』の案内です。デザインは札幌のフジワラ・トシカズさん。カズさんのあっという間に出来上がる作品の素晴らしい出来に感嘆しています。アメリカはどうやら来年度から徴兵制を復活させる準備をしているようです。対象は18〜26歳の男女。金持ちはすでに海外に移住を始めているといいます。どこまでこの政権は対テロ戦争を進めて行く気なのでしょうか。

金曜日, 5月 28, 2004

5月28日

このところ「テロリストは誰?」用の解説原稿にとりかかっているため、ほとんど他のことには手がつけられない状態です。この映画(ビデオ)の翻訳字幕を全編読み返して、必要な項目を選んでその解説を書くと言う作業ですが、なかなかこれが大変な仕事で、たった1項目を調べるのに数時間かかってしまうこともあります。でもお陰で、映像を見ただけでは知ることのない、詳しい時代背景や人物像に接することができ、とても勉強になっています。いまは、コスタリカでのアメリカCIAによるコントラ支援軍事活動について調べているところです。コスタリカは、大戦後の1949年に日本と同様に軍隊を憲法で放棄し、永久平和中立宣言をした国です。中米は、長い間特権階級の圧制に苦しんできた農民や労働者たちの民主主義的意識が芽生え、キューバ革命をきっかけに反政府運動による内紛が各地で起こりました。アメリカは、この地域への覇権を確保するためにCIAによる秘密活動と軍事介入を行ったため、中米のひとびとの多くが犠牲になりました。コスタリカでも戦後革命が起きて、いろいろと内紛もあるのですが、なんとか外国からの干渉や侵入を防いで今日にいたっています。その歴史をみると、とにかくアメリカとうまくやっていこうという歴代政権のしたたかな外交政策があるのです。隣国ニカラグア内戦のときは、CIAの麻薬・武器取り引きの秘密基地を国内に作ることを黙認し、アメリカ軍を援助したのですが、のちにこれを禁止し、麻薬取引きを厳しく対処していきます。もちろんアメリカは怒るのですが、なんとかうまく外交戦術でしのいでしまいます。他の中米諸国がほとんどアメリカの軍事介入で傀儡政権と化しているのに、コスタリカだけは、独立を保守できているのは驚異でもあります。それは軍隊を捨てたという平和憲法を歴代の政権が死守したことなのですが、なによりも国民の平和や民主主義に対する高い意識があるからだと思います。ほとんど白人だけの均質社会ということも理由のひとつにあるでしょう。日本も同じ均質社会で、平和憲法があるのに、戦後だらだらとアメリカ占領軍の恒常的基地居残りを認め、巨大な自衛隊という軍隊まで保持し、しかも今回はイラク派兵までしてしまいました。平和憲法を現実に合わせて変えようと言う動きまであります。コスタリカとのこの差はなんなのでしょう。それはひとえに国民の政治への意識、民主主義というあり方についての意識の差だと思います。独裁政治下で過酷な生活を強いられてきたラテンアメリカの人たちが、何回も民主主義革命で多くの血を流し闘ってきたなかで、国民による国民の政治を求める民主主義の意識が成長してきたのです。実際に国民が闘って獲得してきた政治です。ところが、日本人(国民)がそのように直接政治に関わって闘ってきた歴史はありません。政治はいつも武士や貴族という特権階級のもので、第二時大戦を闘ったのは軍隊(軍部)であり、人民ではありません。たしかに何百万もの犠牲者がありますが、兵士以外は闘って死んだのではないのです。日本人の政治はいつも「お上」から与えられると言う意識がまだまだ強いのでしょう。政治に無関心な人が多いのはこの辺の理由でしょう。これを変えるのは、私たちが政治を変えることが可能という認識を植え付ける活動が必要です。その最先端がNGO活動ですね。

土曜日, 5月 15, 2004

5月15日

めまぐるしい世界。こんなに平和という言葉が日常を駆け巡ることはかつてなかったのではないでしょうか。それと同時に、人間性を根底から否定するような、高慢な残虐性がこれほど意識されたこともなかったかもしれません。ふと目を家の外に向けると、今年も野原には色とりどりの花々が競って咲き乱れています。なにもないように。自然界の泰然自若さと人間界の極まった混乱ぶりが際立っています。これは何を意味するのでしょう。なにか世界全体で人間の意識そのものが希薄になっているような気がします。

苗床の苗がどうにか3センチほどに育ちました。涼しい天気がつづいたからでしょう、ゆっくりです。筍は孟宗がそろそろ終わり、これからはっ竹がでてきます。子どもたちももう筍ごはんはうんざりという感じです。我家の屋根は萱ぶきですが、その上に保護のためトタンを張ってあります。もうそれが古くなって真っ赤に錆てしまいそろそろ変えないといつ雨漏りがしてもいいという具合になっています。業者に見積もりしてもらったら100万円以上ということでした。そこで、いろいろ思案したあげく、この際、萱もトタンもやめて屋根をすっかり新し作りなおしてしまおうということになりました。そうすれば2階もできるし、窓も作れて明るくなるでしょう。さてさてそれにしても大工事になることは確実です。若い大工さんが明日相談にきてくれることになりました。

水曜日, 4月 21, 2004

4月21日

串木野市、熊本市を経て、昨日は本渡市、そして今日は天草の下山温泉に来ています。このところ無理に無理を押してきたつけが回ってきた感じで、ついにゆみの風邪が最悪の状態になり、昨日はほとんど咳き込んで話ができないような講演になってしまいせっかく来場してくれた方々に本当に申しわけなく思います。これというのも、人質事件発覚から、それこそほとんど不休不眠で海外や国内との連絡をやっていたつけが回ってきたからです。

土曜日, 4月 17, 2004

4月17日

九州・宮崎から鹿児島に向かう列車に乗っています。昨日から宮崎市を皮切りに九州・講演コンサートツアーが始まりました。鹿児島本線を南に下り、都城(みやこのじょう、と読むそうです)までは深い山を抜けていくので、車窓からの眺めは新緑の山並が次々と流れこころを和ませてくれます。藤の花の島が緑の海に転々と漂って本当にいい時期に来られました。宮崎の水田はもう苗が20センチ近くにも育っていましたが、ここでは3月に田植えをするそうで、そうですね、二期作ですからね。じつは、我家の田も、一昨日なんとか種まきを済ませてきました。このところ、時期外れの晴天続きで田んぼがカラカラに乾き、代掻きもできず困っていたのです。種籾はもう1週間以上も漬けてあり、そのまま九州に行くこともできないので、急きょ田に水道水(と言っても山の水ですが)を溜め苗床を作りました。人はビニールシートを使えば庭で簡単に苗を作れるよと言いますが、自分はこと米になると、なるべく化学製品を使わない自然流にこだわりたいですね。クロ(畦)も最近では黒ビニールで水もれを防ぐために使う農家がほとんどになりましたが、私はどうもこれも気が進みません。せっかくの棚田がビニールで汚されているように感じるのです。ことしは、先月滋賀県彦根市の講演会場で知り合った100反の無農薬稲作やっているという草野さんから譲っていただいた「はえぬき」という品種を育てています。とにかくこんな旨い米はないからやってみなさい、と奨められました。そして赤米のモチもすこし蒔きました。草野さんは第三世界の人たちに自分の作ったお米を毎年送る活動を続けています。先週、隣のきこりのおじさん(といっても70を越えてます)がもう歳で苗代作りがおいねえ(つらい)から、今年からは他に頼むことにしたと言いました。これでこの仲村で苗床から手田植えをするのは我家だけになりました。さびしい限りです。隼人という駅に今着きました。ここから八代、人吉に抜ける肥薩線が出ています。たまたま何気なく手にしたJR情報誌を見ると、「肥薩線物語」とあり、この路線、八代〜隼人はいまでは山の中を走るローカル線だが、明治・大正時代はこれが九州の幹線、鹿児島本線だったと書いてあります。当時はいま私が乗っている海岸線を走る鹿児島本線はなく、門司から鹿児島に行くには八代、人吉などを経て(現在の肥薩線)辿りつくしかなかったそうです。どうして便利な海岸線を避け、わざわざ不便な山中に線路を作ったのかというと、それは、軍の意見がすべてにおいて優先される軍国主義の時代だったからなのです。海岸ルートでは敵の艦砲射撃を受けるというのがその主張でした。これが完成したのが明治40年で当時の鹿児島本線です。現在の鹿児島本線(海岸ルート)が完成するのは昭和2年、そこで山間部ルートは肥薩線と改名されました。敵の艦砲射撃を避けて山の中にあえて造られた鉄道だけに、肥薩線はトンネルの数が多く九州一だそうです。難所につぐ難所で、造る人たちは相当苦労したに違いありませんが、今ではその光景が鉄道名所になり人気があるそうです。人吉には10年以上前にそこの出身の人に連れられて訪れたことがありますが、そのときは自動車だったので肥薩線に乗る機会がありませんでしたので、いつかぜひ乗ってみようと思います。それにしても、現在の日本もどこかこの軍国主義時代の臭いがプンプンしているような気配です。ほんの数日前のこと、我家の上を通る林道を走っていたら、迷彩服を着た自衛隊員がトラックを列ねてウヨウヨしているのにビックリ。すぐ車を停めて話を聞くと、訓練演習だといいます。こんなことは始めて、それにこんな公道で許されるのでしょうか。早速、鴨川市長に電話すると、あいにく留守でしたが、代理の人が自衛隊からの報告はなかったと言います。ただ、大規模な訓練は事前に通報してくるが、小規模なものは連絡してこないことになっていると言います。そして、町で用事を済ませて帰宅すると上空に大型ヘリがどうやら地上部隊と合同訓練をしているらしく、我家の上をブンブン低空旋回飛行をくりかえしていました。もう家中が振動し子どもたちは怖がっています。これは許せん、と館山の航空自衛隊基地に抗議の電話をしましたが、やっと訓練が終わったのはそれから30分も経ってからでした。これがなにかの前兆にならないことを祈ります。

木曜日, 3月 25, 2004

3月25日

ただいまー。やっと、ほぼ4ヶ月ぶりに古巣に戻りました。こんなに長く家を離れたのははじめてです。やっぱり我家はいいですね。留守番のアコくん、ありがとう。何から何まできれいに整理整頓されているのにびっくり。留守中、アコくんは地元の仲間たちとすっかり仲良しになったようでよかったよかった。でも、どうして3月末なのにこう寒いのでしょう。このところ台所の寒暖計は毎朝2〜3度です。おかげで一日中薪ストーブをつけてます。そのからだにやさしい温かさが快適ですね。もうフキノトウは花がひらいて食べられないかなあ、とあきらめていたら、ありました。まだ山肌の陰につぼみで開きかけているのが。早速てんぷらに。ついでにツクシも摘んで卵とじに。ハクサイが黄色い花をつけています。これは菜花で我家の得意料理菜の花スパゲッティに。春の食材を満喫させてもらっています。日本はいいなあ。

金曜日, 3月 19, 2004

3月19日

17日の夜は大阪の應典院というお寺のホールが会場でした。くつろぎへいわ企画の若い女性ふたりが、こんなこと始めてやりましたと言ってましたが、すばらしい会を企画してくれました。さすがですね、会場は若いひとたちでいっぱい、しっかり見つめる眼差しと熱気がステージにもひしひしと伝わって来ます。この日のゆみのトークもいつもと違ってごく早口で快調です。私の歌も若者たちとのこころの交流が感じられました。いいなあ、若いということは、理屈抜きに。できたら日本中の若い人たちを対象にこのピース・トーク・コンサートをやって行きたいですね。会場には高校生も参加していて、自衛隊派遣反対の署名を呼び掛けていました。もうすでに何万もの署名が集まっているそうです。私が高校生のころは政治などにはなんの意識も興味ももっていませんでした。昨夜の会は京都・同志社大学の浅野健一さんが企画してくれました。この大学は京都御所に隣接する所にあり以前は冷泉家のお屋敷だったそうです。さすがに雰囲気ある建物が並んでいます。ちょうど卒業式だったようで、着物姿の女学生がキャンパスにたくさん溢れていて華やいだ気分がこちらにも伝わってきます。浅野教授は以前インドネシア東ティモール問題を共同通信記者として深く関わった有名なジャーナリスト。チョムスキーとの親交でも知られています。浅野さんが昨年カリフォルニアのアルカーダ市を訪問した際、平和活動家のブライアン・ウィルソンからゆみきくちのことを始めて知ったそうです。昨夜はうれしい驚きが待っていました。辻本清美さんが来てくれていたのです。そう、最後に会って以来何年ぶりでしょうか。例の逮捕劇以来公の場所に出るのはこれが始めてだと言います。最近やっと最終判決が出たそうで、2年の実刑、5年の執行猶予だそうです。とても元気そうで以前の福良かな顔をみて安心しました。ゆみの話しを聞いてまたやる気が出たと言ってくれたのは嬉しかったですね。

火曜日, 3月 16, 2004

3月16日

奥深い吉野の山から昇る朝日を拝みながら書いています。ここは奈良県吉野郡にある吉野山・櫻本坊(さくらもとぼう)という1300年前に天武天皇が櫻の夢をみて建立したという寺で、修験道の根本道場として有名なところです。もちろん、吉野櫻の名所で山は千本以上の櫻の木々でおおわれているのですが(千本櫻公園という)、残念なことに少し来るのが早すぎました。櫻開花は4月初旬だということです。山の凛とした空気が肌にほどよく刺激を与えてくれます。昨夜はここの大広間で講演とミニコンサートをしました。子供達は何十畳もの広さに大喜び。さて、ここに来るきっかけは今鴨川で留守番をしてくれている村川あこ君が作ってくれました。じつは、あこ君が以前ここで働いていたのです。全国を自転車で旅していた彼はたまたまここを訪れ、すっかり修験道の生活が気に入ってしまったそうです。山で暮らしていくにはなにもいらない、修験道者は野草を食べていけばよいというあこ君に私たちはこれはすごい人間だなあと感心したものですが、まさかその修験寺に来ることになるとは思っていませんでした。あこ君が櫻本坊の巽良仁住職に私たちのことを紹介してくれて今回縁ができたのです。たまたま古神道の研究者として知られる小林美元先生の講座も同時にありました。ハワイで今回のアロハトラストツアーに参加した桑名晴子さんは小林先生の弟子だと聞いていましたから、これも貴重でありがたい偶然。小林先生にハワイ先住民のことを話したら古神道とハワイ古代宗教とには共通点があるということを伺いました。さらにそのことを書いた本を送っていただけるというので楽しみです。さきほど巽住職による般若心経の写経、(これはゆみが参加しました)と修験道講座がありました。修験道の道とは「諸宗融通の称なり」といい、あるがまま、なんでも受け入れるための道場という意味だそうです。ですから宗派にはこだわらず神仏混合です。この縄文時代から綿々と続いている自然を畏敬し感謝する山岳宗教が日本人の思想・哲学のもとになっているのでしょう。この吉野は日本人の精神性のふるさとかもしれません。帰国して以来、奈良、大阪、京都と旅が続いています。一昨日は滋賀県の琵琶湖のほとり彦根市に滞在しました。あこ君のお父さん、村川晃司さんが呼んでくれました。彦根はりっぱな城があります。村川家からは2kmくらいでしょうか、村川さんに案内され子供達といっしょに楽しく歩きました。江戸時代の町並みが途中復元され一瞬映画セットの中にいるようです。電柱も看板も無く、道路脇には鯉が泳ぐ掘割りがあります。本当に昔の町並みは美しかったのですね。こういう復元事業をもっと全国で広めたら日本は素晴らしい国になるでしょう。彦根には鈴鹿山系を源とする芹川という川が町の中心を流れています。そこで鮎が釣れるというので早朝6時に起きて、ジャンプスーツの重装備を借りて芹川で鮎釣りをしました。芹川は琵琶湖に流れ込んでいますが、琵琶湖で育った稚魚が川をのぼってくるのです。朝霜で真っ白になった河原を踏みしめて行くと、いましたいました釣り人が大勢竿をたれています。川釣りなんていったい何年ぶりでしょう。むかし、と言っても大昔、奥多摩に住んでいたお祖父さんが小学生の私を多摩川の鮎釣りに連れていってくれたことを思い出しました。友釣りという鮎独特の縄張り習性を利用した釣り方です。ところが最近の鮎はすっかりこの本能習性を忘れてしまって、友釣りでは釣れなくなってしまったそうです。この日も雑魚(じゃこ)を小麦粉で練った餌を使いました。さっそく竿を垂れるとおもしろいように釣れます。3時間くらいで15センチほどの鮎を30匹以上は釣ったでしょうか。早速テンプラにしてお昼のごちそうになりました。最高の味でした。

今日の読売新聞に国土交通省がシックハウスの最大原因とされているアセトアルデヒドを住宅の安全基準表示から外すことを決定したと報じていました。その理由が、人体への影響が”完全”に解明されていないからというのです。しかもアセドアルデヒドは天然木材中の酢酸などが化学変化して発生するなどと、あたかも人工的に作られたものではなく自然成分であるかのように書いています。いったいこの読売新聞というのは政府広報機関紙なのでしょうか。あまりの非科学的で政府べったり報道に開いた口が閉まりません。 

火曜日, 2月 03, 2004

2月3日

パラアルトから車で7時間、やっと今夜の集まりがあるパサディナのジョーさん宅に夜7時に到着しました。アンティークの素晴らしい家具や調度品がそこらじゅうにある大きなスパニッシュ風の家で、子どもたちが壊しはしないかとビクビクものです。彼女は女性の平和グループ「コード・ピンク」のメンバーで、今回アイオワでも一緒でした。「コード・ピンク」はヌードのピースサインで有名になりましたね。私たちのために急きょパーティを企画して人を集めてくれました。15人ほどの参加者。アコくんの兄さんのひろしくんが来てくれ子どもたちと遊んでくれたので大助かりでした。今日はゆみの誕生日でもあったので、みんなで一緒に祝いました。夕方ロスアンゼルスに入りがかったころ、素晴らしい虹がそれも2重に掛かっていましたが、天もゆみを祝ってくれたのかしら。でも、さすがに長旅でくたびれました。

月曜日, 2月 02, 2004

2月2日

オークランドより。今朝は冷たい雨がだいぶ激しく降っています。アメリカのマクロバイオテック創始者である久司道夫さんの息子さん、久司玄夫(Larry Kushi)さん宅にやっかいになっています。くしくも私と同じ「玄」ですが、「はるお」と呼ぶそうです。お父さんとは日本とアメリカで2度ほど会っていますが、玄夫さんはお父さんと瓜二つ。声までそっくり。静かな落ち着きのある紳士です。サンフランシスコにある製薬会社の研究所で病気がどのように発展するかという研究をしているそうです。たまたま、娘さんのアンジェリカさんが大学の冬休みでニューヨークから来ていて、にぎやかになりました。クシニッチがベガン(動物性たんぱくを食べないベジタリアン)になったのは、そもそもお父さんの久司道夫さんのマクロバイオティックに感化されたからで、1999年に久司さんが日本人で始めてワシントンのスミソニアン国立博物館に永久保存されることになったとき、その記念講演をワシントンで開いたのがクシニッチ議員だったのです。そのパーティの席でクシニッチと始めて出会ったそうです。クシニッチは自分に影響を与えた本のひとつに久司さんの本「One Peaceful World」をあげています。そういう縁もあって玄夫さんはここサンフランシスコでクシニッチ・キャンペーンの中心人物としても活躍しています。でも、今朝の地元新聞San Fransisco Chronicleにはデニス・クシニッチのことは皆無。まったく問題にされていません。いやはや前途多難。まあ考えてみれば、軍事費を削って社会・教育費にまわそうなんていう候補はこの国ではまったくのラディカル、言わば社会の敵と呼ばれてもおかしくない存在です。

昨夜はサンフランシスコにいるロバート・キクチ、ナンシーというパーフォマンス・アーティスト夫妻が私たちのためにパーティーを開いてくれました。ロバートは日本人とフィリピン人の混血(しかもゆみと同じ姓)奥さんは中国人の素敵なカップルです。彼等はみずからをストーリー・テラー、つまり語り手と呼んでいます。世界中といっても主にアジアですが、の伝承話や民話をもとに二人で音楽をまじえた楽しくそしてとてもコミカルな寸劇風に作り上げます。昨夜はカンボジアの民話で「Trouble Talk」という人間が自然界でどのように問題を作って来たかというテーマのパフォーマンスをやってくれました。ふたりとももちろんクシニッチ応援派。みんなで力を合わせて平和の世界を実現しようと遅くまで語り合いました。参加してくれた人たちは全員すでに社会で相当活躍しているアクティビストたちばかり。内容の濃いそしてじつに気分の良い集まりでした。いつかロバートとナンシーたちと一緒にコンサートをできたらいいなあ。

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今日の午後は、サンフランシスコ州立大学のコミュニケーション・クラスにゆみがゲストスピーカーとして招かれ、午後1時からの授業でアメリカの対外政策とDUについて話しました。クシニッチサポーターのシンディがここの卒業生だった縁で実現したのです。最後に「Last Night I Had・・」を歌ったら拍手喝采。若い人は吸い取り紙のように情報と知識を受け取ってくれます。生半可の知識で物知り顔をするインテリ大人たちより、この若い未来の創造者たちのほうがやりがいがあるようです。とても好評だったのでシンディがまた学校でのトークを企画してみると言ってくれました。そして私たちはサンフランシスコを後にしてレンタカーで南に280号線を30分ほど下り、今夜の宿泊先のパロアルトのダニエル/スーザン宅に到着しました。二人はやはり熱烈なクシニッチ支援者。ゆみが昨年始めてクシニッチに会いに渡米したときお世話になったところです。ここに来たわけは、今夜ここの高校で「すべてのテロリストの陰にブッシュあり!」というおもしろい催しがあると聞いたからなのです。子どもたちをスーザンたちに預けて、久しぶりにふたりで出かけて来ました。コメディあり反戦ソングあり、もうすべてブッシュをコケにするプログラムばかり。千人は入るなと思われる会場はほとんど中年から年寄りの観客でいっぱいでした。3月26日から3日間、サンフランシスコで「9・11同時多発テロ国際調査会議」というのが開かれるのですが、これはそのための資金集めも兼ねているそうです。今夜のスピーカーのひとりのエリック・ハフシュミットは、9・11事件を調査している個人で、あの日世界貿易センタービルに2機目が衝突する様を捉えたビデオを紹介しつつ、誰も2機目が隣のセンタービルに激突することなど予想もだにしなかったのに、なぜこのビデオを撮ったひとはそれを事前に知って正確なカメラアングル(ちょうどジェット機が突っ込む80階にアングルを向けていた)でこれを撮影したのか、と疑問を呈していました。偶然にしてはできすぎています。彼はこれはどうみてもリモートコントロールされた飛行機がタワーに突っ込んだので、撮影者はそれを事前に知っていてカメラをセットして待っていたのだと主張しています。現在の世界の混乱はすべてこの9・11多発テロ事件に端を発しているのですから、このような疑問は徹底的に解明してもらいたいです。それにしても3月に開かれる国際会議にはマイク・ルパートをはじめこの件に関してはエクスパートの錚々たるメンバーが始めて集結するようで、できたら私も参加してみたいです。そこでまたびっくりするような新事実が発見されるかもしれません。

日曜日, 1月 25, 2004

1月25日

昨年の9月、私たちは「デニス・クシニッチに会いにいこうツアー」を呼び掛け、ここサンディエゴにやってきました。そのときの会場がヨランダとベトーというメキシコ系夫妻の自宅です。いま、そこに一昨日からやっかいになっています。クシニッチ選挙運動で奥さんのヨランダはサンディエゴ支部の中心的存在です。ラテン系特有の明るい、物おじしない女性です。今回アメリカに来て以来平和運動の中核をにない、エネルギーの原動力になっているのが圧倒的に女性であることを痛感します。これは日本でもほかの国でもそうですね。先週は民主党集会が最初に開かれたアイオワでクシニッチと一緒に各地区を回りましたが、やはり女性のパワーが求心力になっていました。デモインで泊めてもらいお世話になったマリーベスも一見おっとりした感じを受けるのですが、話をすると彼女の活動ぶりに驚かされます。アメリカは女性の権利が確立されている国だというイメージがありますが、これはとんでもない嘘で実際はまったくの男社会なのです。ワシントン議会の圧倒的男性議員の数を見れば分かるでしょう。法律で建前上男女平等をうたっているだけであり、ジェンダーとしての存在はもう差別と言っていいくらいです。だからこそ、アメリカの女性があらゆる社会問題改革のための運動の駆動力になっているのです。そして裏を返せば、アメリカの男中心社会とは、力(パワー)とマネーの支配する社会であり、それは暴力社会でもあるということです。そうです、だからこそ世界最大の軍事力で自国民と世界を支配しようとしているのです。まさにブッシュはマーチョアメリカの象徴です。でも考えてみると、本当に弱い者、自分に自信がない者が富や武器を持ちたがるのですね。人間的に目覚めていないと言ってもいいくらい。もしアメリカに女性の大統領が出現したら、本当に世界は変わるでしょう。もちろんクシニッチがなればいいですが。

日曜日, 1月 11, 2004

1月11日

ロスアンゼルスで「1月11日1時11分に平和のために音を出す」という企画をやろう、と決めたのはここに着いてから、つまりたった二日前のことです。9−11のテロ事件の直後にグローバルピースキャンペーンを立ち上げたときに、英語のメーリングリストも一緒に立ち上げたので、まず最初はそこで簡単なアナウンスをしました。このリストには世界各地の人が多く参加しているからです。内容は「日本で1月11日1時11分に平和のために音を鳴らそう、という企画があるので、あなたも自分の住んでいる地域で友だちと集まってやってみませんか」、というだけのものでした。1月9日にロスに入ると、たまたま地元のチェリストのピーターさんとお会いし
ました。彼は民主党の大統領選挙に出馬しているデニス・クシニッチの支持者で、クシニッチのパーティーで何度か即興演奏をしたことのある人です。この平和アクションのことを話すと、彼の友人でベニス・ビーチで黒人バンドをリードしている人がいるから、そこでもこのイベントができるかもしれない、ともかく11日はそこに行こう、という話になりました。何の前宣伝もできないまま、ともかく11日はベニスビーチで「1月11日1時11分」の平和アクションを試みることが急遽決まったのです。当日、私たちはマイクもアンプも何も準備できないまま、ベニスビーチに向かい
ました。ボードウォークに着くと黒人バンドのアブラハムさんがすでに演奏をしていました(彼らは毎週ここで演奏している)。初対面の私たちを快く迎えてくれ、私は彼にこの平和アクションのことを説明しました。私が話し終わるや否や彼は「それはグッドアイデア、サポートするよ」とすぐに引き受けてくれました。

1時まで時間があったので、私もジャンベを叩いてしばらく一緒にセッションを楽しみました。1時になるとアブラハムさんはボードウォークでの散歩を楽しんでいる人たちに向かって、こう伝えました。「みんな、聞いてくれ。今日は地球平和のイベントが行われる特別の日なんだ。1時11分になったら、地球上のあらゆる場所で平和のために祈り、音楽を奏でるんだ。そのために日本から来ているゆみを紹介する」と言って私にマイクを渡してくれました。1時11分のちょうど2分前にマイクをもらった私は、「こんにちは。ここにいる人で平和を求めている人は手を挙げて。(ばらばら、と手が上がる)今日は地球上で1時11分に平和のために音を鳴らそう、というアクションが行われています。ここアメリカではベニスビーチを選びました。音楽をするのに最もふさわしい場所ですから。私たちは今平和の大切さを伝えにアメリカを旅しています。あと30秒で1時11分。時間が来たらLast Night I had The Strangest Dreamを歌いますので、ご存知の方は一緒に歌ってください」と短いスピーチをして、いつもアメリカの平和集会で歌っている「世界中がもう二度と戦争をしないと決めたとても不思議な夢をみた」という内容の歌を歌いました。ベニスビーチは若者や家族連れでにぎわう海辺の散歩道で、ロスアンゼルスの観光名所でもあります。おしゃれなカフェやレストランやショップのほかに、地元のアーティストが作品を展示販売したり、ストリートミュージシャンが腕を披露したりするホットスポットです。観客はいくつもあるパフォーマンスの中から自分の気に入ったものを見つけて足を止めます。私たちが歌い始めると、散歩をしていた人たちが足を止め始め、観客の輪ができました。観客の輪の向こう側にはおしゃれなレストランがあり、そこの客もこちらに耳を傾けてくれています。一番前にいた老婦人と若い女の人が一緒に歌っています。ほのかな喜びが私を満たします。いくつもの偶然が重ならなければ、ベニスでのこのアクションは不可能でした。みえない運命の不思議さに驚きを感じています。地球上のどこにいても、そしてどんなに小さなアクションでも、平和の種を撒き、平和のメッセージを伝え続けることを大切にしたいです。

このイベントは東京から始まり、ここロスまで地球の自転とともに巡ってきました。何の準備もなく、まったく即席のイベントでしたが、ベニスビーチに集った数十名の人々と1月11日・1時11分の地球規模の平和アクションを分かち合うことができました。ステージの並びでは『戦争中毒』を出版したフランク・ドリルさんたちがテーブルを出し、いつものようにマンガ本『戦争中毒』とビデオ『第三世界に対する戦
争』を販売していました。演奏の後は、そこで日暮れどきまで売り子を手伝いまた。明日から「One Dance Summit」に参加するために、サンタ・クルーズへ向かいます。私たちの平和の旅は、3月まで続きます。

ロスアンゼルスにて  ゆみ

木曜日, 1月 01, 2004

2004年1月1日

アメリカの西の端・ハワイから、あけましておめでとうございます。今朝は初日をハワイ島の北端にある聖地ポロルで拝みました。太陽と海とハワイの大地に祝福されているのを感じました。生きているだけで、私たちは祝福されているのだ、と。

午後はJAが関わった大型ゴルフリゾート開発で注目されたホクリア開発のすぐ真上に住んでいる友人宅で新年会に参加。つきたての黒米のお餅が入った極上のお雑煮と黒豆や煮しめなどをいただきました。独創的な女神を描き続けている画家である友人は、ハワイで自給のための畑を持ち、ハワイの先住民の人たちとスピリチュアルな道を歩み続けている素敵な女性です。おいしいおせち料理をいただいたあとは、20名ほどの前で、玄さんと一緒に「花はどこへいった」「Last Night I had the Strangest Dream」などの歌を歌い、デニス・クシニッチの「平和の大統領候補」というビデオを見てもらいました。6−7名ぐらいが彼の名前を聞いたことがない、という人でした。クシニッチのことを知らないアメリカ人に、彼のビジョンを直接伝えることができて、うれしい2004年の幕開けです。

12月にアメリカに入ってから、会う人ごとにクシニッチのことを伝えていますが、彼のことを知っている人はやはり少ないです。アメリカのメディアはほぼ完全に彼のことをシャットアウトしているかのようです。仮に知っていても「クシニッチの政策は素晴らしい。だけど(BUT)・・・」と必ず続きます。理由はさまざまですが、彼は当選するはずがないので、投票は別の人(たいていがディーンかクラークの名前を挙げます)にするんだ、というのです。クシニッチの政策は素晴らしい、と言っている人が全員クシニッチに投票すれば、当選するのに、と私は思うのですが・・・。

カントリーシンガーの大御所のウィリー・ネルソンが、新しい平和ソングを1月3日にデニス・クシニッチのためのコンサートが行われるテキサス州オースティンで発表します。その歌詞の一部を分かち合いますね。

ウィリー・ネルソンがクシニッチをサポートするのは、クシニッチは小規模農家を支援する政策を打ち出しているから、と言っています。

「地球の平和はいったいどうなった」

世界じゃいろいろ起こっている

赤ん坊は死んで

母親はおろおろだ

人のいのちは石油にするとどのくらいなんだ

いったい世界平和はどうなった

お偉方の言葉をみんな信じてさ

やつらにやられる前に

やっちゃおうぜ

だが 聖書じゃこう言ってるんじゃないかい

「汝殺すことなかれ」                       

それでもみんな信じてるさ

生まれたときから言われてるんだ

ウソなんかつくかい

テレビなんかで

ひとのいのちは石油でどのくらいかい

いったい世界平和はどうなった                        

きくち ゆみ