私たちが目指すのはあらゆるレベルの自給自足的な暮らしです。千葉鴨川のリモ農園(ハーモニクスライフセンター)では、ほとんどの野菜や米などを約1反(300坪)の棚田の畑と田んぼでまかなっていました。昨年ハワイ島コナのハーモニクライフハワイに拠点を移しましたが、米作はつづけたいと思っています。
100年以上前に、日本から大挙して(一時は20万人)サトウキビのプランテーション労働者としてハワイにやって来たという移民の人たちは、田んぼで米をつくっていたそうです。じつは高層ホテルが立ち並ぶワイキキビーチも昔は田んぼだったと聞いてビックリしました。
1890年代のワイキキ
ところがハワイではお米をつくっている人がもういません。昔は米作をどのようにしていたのか知りたいと思い、日系のお年寄りに出会うたびに訊ねるのですが、誰も知らないと言います。どうやらハワイの米作は日系移民1世の代で終わってしまったようです。
そこでハワイの米作の歴史をひもといてみました。参考にしたのは「
ハワイの稲作:歴史的資源のガイド」(キャロル・ハラグチ著)という政府刊行の文献です。
19世紀半ばまでハワイの経済を支えていたクジラ(鯨油)産業が、1860年代、灯油によって鯨油がとって代わられ、急速に衰退してからは、主に砂糖と米の生産がハワイの主産業になりました。1860年代半ばから、カリフォルニアで米の生産が始まる1920年代まで、米は砂糖に次ぐハワイ諸島の重要な農作物だったのです。8つあるハワイ諸島の中で地質的に古く水が豊富な、つまり農業に適したカウアイ島とオアフ島でまず米作が始まりました。中でもカウアイ島のハナレイバレーはハワイ最大の水田が開発され1960年代までそれはつづきました。
私たちの近所に住む日系のエセルさんはカウアイ島出身で、小さいときに米作りの水田を見たことがあると言います。
じつは、最初に米作りを始めたのは日本からの移民ではありません。ハワイには日本の里芋の原種とされる伝統的なタロイモの水田がどこにでもありました。そこで米の栽培に最初に目を付けたのはホルスタイン博士という白人です。彼が中国から稲籾(もみ)を手に入れホノルル近郊のタロイモ水田で始めたのが最初とされています。その後、米が栽培できることが人々に知られると、それまで半ば見捨てられていたタロイモ水田が急に注目されて高い値段で取引されるまでになり、米作産業が急激にハワイの主要産業として成長し始め、アメリカ本土にまで輸出するようになりました。1862年には、111,000ポンド(49、950キロ)の精白米と812,176ポンド(365,500キロ)の籾米がカリフォルニアに輸出されました。当時のハワイには、稲籾を処理するいわゆる籾摺りと精米工場が完備していなかったので、ほとんどが稲籾のままでサンフランシスコの精米工場に輸出されました。
1860年代から70年代にかけて、ハワイの米作は飛躍的に伸び、1887年には過去最高の1,300万ポンド(585万キロ)の米が輸出され、1889年にはルイジアナ州とサウスカロライナ州に次いで全米第三位の米生産地になりました。
当時はまだ日本からの移民がなかったので、実際に米作をしたのは中国人の移民たちです。彼らは3年間の就農契約でハワイにやってきた中国の米作農家の労働者たちでしたから、契約が過ぎてもハワイに残ってタロイモ水田を借り米作りをつづけました。彼らが最適な場所として選んだのがカウワイ島のハナレイバレーです。
今日のハナレイバレー
今でもタロイモが栽培されています
日本人移民が始まるのは、1882年にアメリカ議会で中国人排斥法が制定されてからです。アメリカ本土には当時たくさんの中国人が、主にカリフォルニアのゴールドラッシュ時代の鉱山や大陸横断鉄道建設の労働力として中国からやって来ていましたが、アメリカ人たちの労働を奪っているという政治問題が持ち上がり、結局そのような差別的な法律が通り、中国人は働けなくなってしまったのです。当時のハワイはハワイ王朝が主権を握っていましたが、アメリカの強い影響下にあったために、同様に中国人移民たちを排斥しました。
中国人に代わるサトウキビのプランテーションの労働力として、日本人が最初に移民して来たのは1885年です。その年に、日本の明治政府とハワイ王朝との間で日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に認可されたからです。当時、日本政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡りました。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込み、ハワイへと渡りました。日本人労働者は、以降急激にその数を増し、5年後には日本人移民人口はプランテーション労働人口の42%、またハワイ総人口の1/7にまで増えました。
1885年サトウキビプランテーションの日本人労働者
皮肉なことに、急激な日本人の移民増加がハワイの米作産業の衰退を加速することになったのです。
日本人はそれまで中国人が栽培していたロンググレインという長粒米に代わって、短粒米のうるち米を栽培していましたが、うるち米がカリフォルニアで大型機械農業によって大量生産されるようになると、ハワイの米は価格的に太刀打ちできなくなり、カリフォルニアから安い米を輸入するようになったため、自然とそれまでの手作業による日本人の米農家が消滅していきました。
1930年代、ハワイ大学がハワイ米の再生計画を実施し、カウアイ島のハナレイバレーを中心に一時は1,000エーカー(120万坪)の米作水田が開発再生されました。
今日、ハワイには米作水田の名残りはどこにも存在しません。唯一米作全盛時代の名残りが見られるのは、ハナレーバレーの中心にあるハラグチライスミル(精米工場)博物館だけです。
ここで気がつきました。この歴史的報告書を書いたキャロル・ハラグチさんは、ハラグチライスミルを創設したハラグチ家の方なんですね。後世の人々にハワイの米作の偉大な歴史を伝えるためにお書きになったのでしょう。
明日は私がハワイの米作に挑戦するブログを書きます。