木曜日, 1月 01, 2015

本島さんを送る会

今年最後のブログは西岡由香さんの「平和省プロジェクト・JUMP」への投稿から引用させてもらいます。

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今年10月31日、92歳で逝去された元長崎市長の本島等さんも、潜伏キリシタンの末裔でした。

暴力にあっても決してご自身の信念を曲げなかった。その姿は殉教したキリシタンの姿に重なります。

土曜日に、みぞれ交じりの雨の中、本島さんを送る会が開かれました。市民会館のホールは満席状態。実行委員会形式だったのですが、受付はずらっと市役所の方が並び、市をあげて送る気持ちが伝わってきました。

花に包まれた本島さんの笑顔の写真と、キャンドルの明りがともされた舞台で、まず、呼びかけ人代表の田上長崎市長が、かつて市役所の広報課にいたときのエピソードを紹介されました。

本島市長にインタビューに行ったとき、「予算の目玉は何ですか?」と尋ねたら本島さんは「“目玉は無かとよ~。どれも大事かとよ~”と答えて、結局記事になりませんでした」と。そして、こう続けました。

「少数の政策の後ろに少数の人しかいなくても、それも同じように大切。本島さんはそう言いたかったのでしょう」。その思いは本島さんから田上市長に引き継がれている、そう感じました。

続いて、アメリカの国連総会で通訳をされたブライアン・バークガフニさん。

国連総会で本島さんは、日本の加害についても触れ、「お互いに謝罪しあうことが平和につながる」と演説して拍手をあびたとか。各国からの賛辞に本島さんは「僕じゃなか。通訳が良かったとさ」。

ブライアンさんは長崎の歴史や文化研究の第一人者ですが、長崎市の外国人嘱託第一号でもあります。推薦したのは本島さんだったそうです。

ブライアンさんが最後にこう語りました。「“安らかにお眠りください”は英語でRest in Peaceといいます。Rest in Peace」。

銃撃事件のあと「長崎市長のことば」というブックレットが岩波書店から発売されたのですが、岩波の関係者の方も挨拶に立って、その本が関係者をとおして皇居にわたされたことも紹介されました。

銃撃を受けた直後、こん睡状態の本島さんの病室を尋ねたら、カトリックの本島さんはうわごとで「告解」のような言葉をつぶやかれていたそうです。

高校生一万人署名活動のメンバーの力強い「平和への誓い」、純心高校の生徒たちによる聖歌の合唱、そして参加者全員での献花。白いカーネーションをささげながら涙があふれてきました。

終了後、会場の外で城臺美弥子さんとばったり、城臺さんは今年8月9日の長崎市平和祈念式典のとき「被爆者代表挨拶」で「集団的自衛権は憲法を踏みにじる暴挙です」と断罪された方です。

式典のあと、城臺さんのところには、励ましのお手紙がたくさん届いたとか。
「城臺さん、あのスピーチはすごかったです!」と話したら、城臺さんはほほ笑みながら
「みんなががんばっているから、私もがんばらんば、と思っただけよ」。

あーダメだ。涙腺ゆるみっぱなし。
ひとつの言葉の向こうに。
ひとつの行動の向こうに、たくさんの言葉、行動、誰かの生き様があるのですね。
このメーリングリストの皆さんの言葉も、きっと誰かの明日へつながる。
明けない夜はありません。
感謝をこめて・・

西岡由香

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

スピリチュアル的な視点で見れば、世界市民で仲良く平和なのでしょう。

その通りです。いつかはそうなるでしょう。

しかし、物質次元で現在生きている我々は、現実的な対応をしなければなりません。

憲法改定すればよいだけの話です。

原爆を落としたのは、誰ですか?これは、ユダヤ人を虐殺と同じジュネーブ条約違反のホロコーストです。

なぜ、奴隷根性よろしくそのアメリカにあこがれ、誤りを正さないのですか?

なぜ、全ての日本の行為が悪で、諸外国が善だったとの欺瞞をまだ信じるのですか?

アメリカは反骨の侍にこそ敬意をみせるでしょうが、蹂躙したのになおかつ尻尾をふる奴隷には敬意を表さないでしょう。

日本人は戦争に負けて、人道主義になったのではなく、精神的・思想的な奴隷となったのです。

一体、中国、欧米、諸外国が日本より人道的だったことがあるでしょうか?

日本人は、戦争に負けて、正義と公平を「人道主義」すりかえさせられたのです。

真の人道主義はあります。しかし、日本の「人道主義」は諸外国が日本を都合よく管理・洗脳するための道具でしかありません。

匿名 さんのコメント...

divide and rule という謀略思想があります。たぶん超国家的権力などはこれが、ベストの支配方法なのでしょう。

政治的に、過去日本は中国側・米国側の両極端に振れさせられているのは、見事にイルミナティの戦略に支配されているからでしょう。

日本は、彼らのくびきから脱し、日本主体として彼らの上を行く思想と戦略を持たねばなりません。

それは、左翼・反日組織特有の幻想の平和主義などではないはずです。

それは、日本の魂からくる真の平和を希求する心、それに裏付けられた世界への強力なリーダーシップを必要とします。

本来日本人はそのような強力で優美な民族だったはずです。恐れを知らぬ侍であり、かつ虫の生死にさえ詩を書き涙を流す高貴な民族だったのです。

日本の戦争がなかったら、欧米以外は白人の奴隷となり、最終的には白人さえ自らの業により自滅していたでしょう。勿論、日本が全面的に善だとは言いません。

しかし、日本人は、このような高貴かつ難易度の高い生き方をし、精神と魂を高めて来ました。決して、ただ平和を唱えれば、傷つくことなく無事に過ごせる、などと考えて来ませんでした。

私は個人的に、シルバーバーチなど真実性の高い霊訓を研究して来ましたし、マシューの言葉にも、真実性は感じます。それでも、はっきりとは言えませんが、日本にある平和主義は、どこか信じられない感じがするのです。

戦争は絶対にしない、防ぐ。しかし抑止力としての準備は怠らない。

この考えはスピリチュアリズムでは、どう判断されるかわかりません。

しかし、この矛盾に、物質次元で生きる我々人間の知恵と限界、ぎりぎりの努力と決心を感じるのです。

このような現実的な努力の上に、いつかはマシュー、シルバーバーチが予見する、「神々が闊歩するような世界」に向かうのではないでしょうか?